栃木県議会 2021-06-08 令和 3年度栃木県議会第376回通常会議-06月08日-04号
私がかつて新任教員として勤務した宇都宮市立一条中学校の当時の加賀美静男校長は軍人上がりの教師で、終戦末期に国のために働きたいとの思いから、当時、広島県にある海軍士官学校に入校していました。そこで終戦を迎え、故郷の栃木県に戻って国のために働こうとの思いは変わらず、選んだ職業が学校の教員でした。
私がかつて新任教員として勤務した宇都宮市立一条中学校の当時の加賀美静男校長は軍人上がりの教師で、終戦末期に国のために働きたいとの思いから、当時、広島県にある海軍士官学校に入校していました。そこで終戦を迎え、故郷の栃木県に戻って国のために働こうとの思いは変わらず、選んだ職業が学校の教員でした。
堀川通りは戦前は250余の店が軒を並べた堀川京極商店街があり、東の新京極、西の堀川京極と言われ繁栄していたところですが、第二次世界大戦の終戦末期に住民が強制疎開させられ、現在の堀川通りができました。 戦後、以前の堀川京極のにぎわいを取り戻したいという住民の願いに応え、京都府は住宅難解消と堀川商店街の復興を目指して、昭和25年から28年にかけ、店舗付集合住宅を6棟建設しました。これが堀川団地です。
また、終戦末期には九十九里海岸から米軍が上陸することが予想されたため、対抗措置としてつくられた飛行場の一部に建っています。私は国体のセンターファイア・ピストルの会場が警察学校であることから、ちょっと見させていただきました。入学したばかりの学生のやる気と規律正しい行動に安心いたしました。 ただ、せっかく警察官に採用されたのに退職される学生が多数いると聞いて驚かされました。
今、空襲ということがありましたので、滋賀県の空襲被害というものを自分でも調べて、いろいろな方にヒアリングをしたんですけれども、そうすると、終戦末期の昭和20年に入りましてから滋賀県に空襲がふえているのですけれども、例えば昭和20年5月にはB-29と日本軍機の交戦、これは彦根の話ですが、それ以降、5月16日には焼夷弾が落とされたでありますとか、5月あたりからそういうことが頻発してくるのですが、本当の大戦末期
このような攻撃が加えられたのは、終戦末期になって、新潟港が重要な軍事的拠点として位置づけられたからであると、先日の新潟市議会で市当局が答弁をしております。 もともと広島の呉のような軍港ではなかった新潟港が、このような重要な軍事的拠点として位置づけられたのは、戦争末期、本土決戦のために、中国大陸から軍事物資を引き揚げ、それを本土に集積するため、新潟港が利用されたからだと言われておるのです。
◆49番(吉原稔君) (登壇、拍手)まず、旧陸軍の八日市飛行場の戦闘機を空襲から待避させるために、終戦末期につくられて未完成のままで終戦を迎えた掩体壕というのが、八日市市の柴原南町の布引丘陵の山ろくに2カ所残存をしております。